memo

 具体性のある言葉は高度な抽象性を呼び覚ます。
 たとえば、

ドブネズミみたいに美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから

 という甲本ヒロトの歌詞を読んで「見てくれにこだわってちゃだめだよね」と思う人もいれば、「ちっぽけな存在でも誇りを持った姿は美しい」と思う人もいる。
 じゃあ、この歌詞が散漫で漠然とした印象しか与えられていないかといえば、そんなことはないだろう。「ドブネズミみたいに」ということで、聞き手の想像力の焦点が一気に絞られて、各人の考え方に応じた共感を引き出すことができるのだ。
 あるいは、ついさっき聞いたばかりのRADWIMPSの曲でこんなフレーズがある。

火曜も土曜も雨の日も変わらぬもの探したよ(11thシングル「マニフェスト」より)

 これが、たとえば「いつでも変わらぬもの探したよ」だとしたら、屁のような共感しか得られないだろう。「火曜も土曜も雨の日も」とすることで、「いつでも」と書くよりずっと「いつでも」感が出る。
 つまり、具体性を持たせることによって、その文に存在感が与えられるのである。逆に、具体性のない言葉には、表層的な意味しか存在しない。肉体から発せられた言葉ではなく、観念から発せられた言葉ですらない。偉い人のつまらない冗談への愛想笑いみたいな、飲み会でとりあえずビールを頼むみたいな、事なかれ主義的な、耳当たりのよい言葉でしかないのである。
 さらにいえば、具体性があればなんでもいいわけではない。「ドブネズミみたいに美しくなりたい」が、仮に「あの空みたいに美しくなりたい」だったとしたら、やはり屁のような言葉に成り下がってしまう。具体性というのは、言葉に存在感を与えるための手段なのだから、上っつらの具体性を持たせても仕方がない。聞き手の想像力を刺激する「何か」を持ってくるのが作詞者のセンスの見せどころだろう。
 と、わざわざこんなことを書いたのは、Hilcrhymeの「春夏秋冬」という曲を聞いたからだ。

今年の春はどこに行こうか?
今年の夏はどこに行こうか?
春の桜も夏の海も あなたと見たい あなたと居たい
今年の秋はどこに行こうか?
今年の冬はどこに行こうか?
秋の紅葉も冬の雪も あなたと見たい あなたと居たい

 えっ、「春の桜」「夏の海」「秋の紅葉」「冬の雪」を並べるなんてアリなの? それは、春夏秋冬にくっつけて、もっとも印象に残らない単語じゃないか? 「夏の海」より「夏の焼きそば」とかのほうが、イメージが膨らまないか? 「冬の雪」より「冬のバス停」とかのほうが詩的な想像力を刺激しないか?
 しかも、この歌詞、曲中に3回リフレインする。何周まわって辿り着いた境地なのだろう。

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