2008.04.11 Friday
1. 『天下統一』とは歴史SLGである
『天下統一』とは1989年にシステムソフトが発売した歴史シミュレーションゲームである。
当時、このゲームをはじめてプレイしたときの衝撃は、多くの人と共有できるものだろう。ともすればプレイヤーの一人勝ちで単調になりがちな歴史SLGにおいて、プレイヤーに匹敵する速度で拡大し、全戦力をぶつけてくる敵勢力との戦いは、まさにプレイヤーも全智を駆使して迎え撃つにふさわしいものだった。それは、奇跡にも等しいゲームバランスだったのである。
その魅力にとりつかれた私は、飽きることなくプレイを繰り返し、プレイヤーとして選択できる58家の大名家の大半で全国統一を果たしたものだ。
だが、それから10年以上たって、やり残したことがあるのではという思いを忘れることができなかった。それこそが、富樫家での天下統一。全58大名家のうち、万人に「最弱」と認められた富樫家でこのゲームをクリアーしなければ、真のプレイヤーとして認められないのではないか。
「忘れものを取りにきたぜ…」
そうつぶやいて、私は『天下統一(復刻版)』を起動したのだった。

2. 富樫家はなぜ弱いのか
「天下統一」で選択でき58の大名家のうち、総合的にみて最も弱いとされるのがこの「富樫家」である。
なぜ、そこまで弱いのか。
2-1. 周辺勢力が強い
富樫家のプレイを最も困難にしているのが、国内の大半を占拠する一向一揆勢力である。富樫家の総兵力1,500に対して、一向一揆勢力は10,000人とその差は歴然。「ヤムチャとベジータってどっちが強いの?」と聞くようなものだ。多くの場合、最初の1ターンで軽く滅ぼされてしまう。北陸地方に大雪が降り、一向一揆勢力が身動きをとれなかった場合のみ、もう1ターンを生き延びることを許される。どちらにしろ、半年ほどで滅亡するはかない大名家である。
さらに、もし国内に一向一揆勢力がいなかったとしても、南には名門朝倉家が、北には本ゲーム中で最も精強な上杉軍が待ち構えている。
2-2. 武将の能力が低い
本ゲームに登場する武将の能力は、「軍事」および「内政」に設定された1〜16の値で評価される。たとえば織田信長は軍事10、内政14と、ゲーム中でもトップクラスの能力であり、軍事にせよ内政にせよ10を超えていれば、かなりその分野に秀でているといえるだろう。
一方、富樫家の当主たる晴貞の能力は全武将でも最低クラスの軍事2、内政1である。ろくに行動できない、戦えば負ける、外交では相手にされないと、何をするにもハンディがつきまとう。
当主の能力が低くても、配下に優れた武将がいればなんとかなるが、配下となっている富樫泰俊は軍事1、内政2と、弟である晴貞と見事なシンメトリーを描くダメっぷりである。このバカ兄弟は合戦するより雪合戦でもしているほうが似合っている。
2-3. 国力が弱い
プレイする上で重要になるのが本拠地となる国の国力である。多くの収入が期待できる国であれば、たとえ無能な当主であっても、物量作戦によりそこそこ戦えるものだ。富樫家のホームグラウンドである加賀は最大41万石と全国でも中位クラスで、そう悪くはない。だが、注目すべきは住民感情10(最高は100)という、とてつもない住民からの嫌われっぷりである。当然、兵を募集してもたいして集まらず、そのうえ一揆を起こされたりする。まあ、その気持ちもわかる。
かくして地の利、人の利に見放された富樫家を救うのは天の利。すなわちプレイヤーの手腕のみなのである。
3. 国内統一のために
3-1. とにかくリセットが基本
序盤の基本戦略は「とにかく生き延びる」ということであり、そのためには、とにかくリセットをしまくるしかない。
ふつうにやっていれば、一向一揆勢力が攻めてきて、1ターンももたない。しかし、北陸地方にあるという地の利を生かし、春と冬は大雪が降るまでとにかくリセット。雪によって足止めされた一向一揆勢力は攻めてくることができない。これは後にライバルとなる朝倉・上杉家の勢力の拡大を遅らせる意味でも重要である。
問題は、大雪の無い夏と秋である。ここで素人は、一向一揆勢力は雪が降らなければ必ず攻撃してくるように思いがちだが、一向一揆勢力が攻めてくるのは「勝てる」と判断したときなのだ。もちろん、兵力差は10000:1500であり、相手は全国屈指のダメ大名なので、それで「勝てない」と判断するのはどうかしているが、それでも一向一揆勢力が攻めてこないことがあるのだ。きっと、リーダーが失恋でもしたのだろう。そこで、夏と秋は敵が攻めてきたらひたすらリセットし、とにかく国力が充実するまでの時間を稼ぐのだ。
もちろん、リセットを求められるのはそれだけではない。少しでも国力の上昇を助けるため、秋は豊作になるまでリセット。加賀の支配率を確保するために、一向一揆勢力が自城の築造をしたらリセット。また、住民感情は毎ターン0〜2上昇するので、できれば上昇量が2になるまでリセット。ちょっとでも気に入らないことがあればリセット。
さらに、全般的な戦略を考えると、自国の動向だけではなく上杉軍の動向にも注目しておかなければならない。なにしろ、越中を挟んでいるとはいえ、本気になった上杉軍の前では、富樫軍など幼児の前の団子虫のごとく蹂躙されてしまう。そこで、ゲーム中に上杉軍に有利なイベントが起こるようならリセット。また、本気になった上杉軍を足止めできるのは武田軍のみであり、敵の敵は味方理論により、もし武田軍の勢力拡大を妨げるようなイベント(信玄が戦死したり、甲斐に疫病が蔓延したり)が発生したときは、ただちにリセットをしなければならない。
以上を踏まえ、各ターンで100回以上はリセットすることを覚悟しなければならない。
3-2. ゲームをスタートする前に
さて、いよいよゲーム開始だが、ここで私にはひとつの考えがあった。それは、「最初に加賀に疫病が流行ったほうが有利なのではないか」ということである。ふつう、疫病というのは石高や兵士、武将の寿命が低下するという、本ゲームにおいてもっとも忌むべき災害である。だが、加賀の敵兵数はこちらの7倍であり、疫病が起こったときにダメージが大きいのは、まちがいなく一向一揆勢力のほうであろう。また、当主の寿命がちぢむのはむしろ望むところである。石高が下がるのは確かに痛いが、もともとさほど石高が高くないことから、疫病で下がるのはせいぜい2〜3万石と豊作でカバーできる範囲。つまり、富樫家があまりにも弱いため、バッドイベントまでもを味方につけるという奇跡が可能なのである。いうなれば、数本伸びた鼻毛は女子に嫌われるだけだが、大量に鼻から生い茂る鼻毛は「たくましい?」と思わせることができるのに似ている。
ただし、疫病を起こすのならスタート時が最適であり、スタート時に狙った国に疫病を起こすには恐るべき忍耐強さが要求される。およそ1000回ほどのリセットは覚悟したいものだ。スタートする前からこれほどリセットを要求されるとは、富樫家恐るべし。

↑スタート直後の加賀国。自軍は兵士が1,500人→1,000人と500人の減少に対し、一向一揆勢力は10000人→7600人と2,400人が減少している。
3-3. 最初は城を普請
ゲームがスタートしたら、しばらく城の普請を続ける。とりあえず、加賀国の支配率を上げておかなければ、自然増により加賀の石高が上昇したとしても、兵の募集ができるほどの勢力とならないからだ。もっとも、あまり自城レベルを上げると、一向一揆勢力もそれに合わせて城レベルを上げてくるので、Lv.7〜9程度で十分であろう。
3-4. そして、ひたすら募兵募兵
そうして一定の支配率を保った状態でいると、兵の募集ができるようになる。あとは、ひたすら一向一揆勢力に対抗できるまで兵を募集しつづけるわけだが、一度に集められるのは100〜200人なので、一向一揆勢力に対抗しうるまでには数年かかる。
武将が二人いるので、集まった兵を両者にバランスよく割り振るか、いずれかに集中させるかは悩むところであるが、今回は後の上杉軍との戦いを考慮して一点集中型にした。
本リプレイでは、4年以上の歳月をかけ、晴貞の兵数は700人から3,100人に。なお、国内的にはたいした変化はないが、国外では上杉軍と武田軍の激闘の末、上杉謙信が戦場で討ち取られてしまうという歴史をゆるがす事件が起きる。謙信を国内統一後の最大の障害と目していたため、この僥倖に雀躍する。
3-5. いざ決戦へ
一向一揆と十分に対抗できるだけの兵力を蓄えることができれば、いよいよ決戦である。むろん、兵力は一向一揆勢力を凌駕するほどではないので野戦になるが、一向一揆勢力は軍事1の扱いなので、それなりに慣れたプレイヤーなら苦戦するような相手ではない。ここまで敵が城レベルを上げないようにする努力(リセット)を怠っていなければ、攻城戦においても城を陥とすことはさして難しくない。かくして、国内統一は成るのである。

↑3度の野戦および攻城戦を経て、見事に国内を統一。画像は記念すべき初勝利の瞬間。
富樫家 国内統一までの年表
| 年号 | イベント | 行動 | 備考 |
| 1551春 | 疫病(加賀)大雪 | ― | ― |
| 1551夏 | ― | 城の普請(小松城Lv.3→4) | 一向一揆勢力が城を普請(大聖寺城Lv.4→5)したのが痛いが、リセットに疲れてきたので妥協してプレイを継続 |
| 1551秋 | 豊作 | 城の普請(小松城Lv.4→5) | ― |
| 1551冬 | 大雪 | 城の普請(小松城Lv.5→6) | ― |
| 1552春 | 大雪 | 城の普請(小松城Lv.6→8) | ― |
| 1552夏 | 疫病(出羽→越後・南陸奥) | 城の普請(小松城Lv.8→9) | 出羽国で発生した疫病が越後に伝染。直接的には関係ないが、上杉家の勢力拡大が少しでも遅れるのはありがたい。 |
| 1552秋 | 豊作 | ― | ― |
| 1552冬 | 大雪 | ― | ― |
| 1553春 | 大雪 | 兵の募集(富樫晴貞7→8) | いよいよ国力が充実し、募兵ができるようになる。募兵ができるかどうかはいくつかの要素が絡んでいるようで、何度かリセットすれば募兵ができるようになることがある。 |
| 1553夏 | ― | 兵の募集(富樫晴貞8→9) | 前ターンに越後統一を果たした上杉家が北信濃への侵攻を開始する。何とか武田家と長期戦にもつれこんでくれることを祈る。 |
| 1553秋 | 豊作 | 兵の募集(富樫晴貞9→10) | ― |
| 1553冬 | 大雪 | 兵の募集(富樫晴貞10→11) | 今川義元死亡、安部元真が当主へ。早い段階で甲駿相三国同盟の一部が破れ、今後の展開に影響しそう。 |
| 1554春 | 大雪 | 兵の募集(富樫晴貞11→12) | ― |
| 1554夏 | 疫病(越後→越中・北信濃・出羽)謀反(吉江宗信・春日山城) | 兵の募集(富樫晴貞12→13) | 独立勢力が城を普請(金沢城Lv.5→6)したが、上杉家をゆるがすイベントが発生したためリセットせずに継続。北信濃で武田軍と争っていた上杉謙信だが、叛乱軍によって越後への退路を塞がれたところを武田軍に攻められ、後継ぎとともに戦死。 |
| 1554秋 | 豊作上杉謙信死亡、宇佐美定満が当主へ | 兵の募集(富樫晴貞13→15) | ― |
| 1554冬 | 大雪 | 兵の募集(富樫晴貞15→16) | このあたりから独立勢力の攻撃が少なくなってきて、リセット回数が少なくて済むようになる。 |
| 1555春 | 大雪朝倉義景死亡、朝倉教景が当主へ | 兵の募集(富樫晴貞16→17) | ― |
| 1555夏 | ― | 兵の募集(富樫晴貞17→18) | ― |
| 1555秋 | 豊作 | 兵の募集(富樫晴貞18→19) | ― |
| 1555冬 | 大雪朝倉教景死亡、雨森弥兵衛が当主へ | 兵の募集(富樫晴貞19→20) | ― |
| 1556春 | 大雪朝倉景鏡誕生、当主へ | 兵の募集(富樫晴貞20→22) | ― |
| 1556夏 | ― | 兵の募集(富樫晴貞22→25) | ― |
| 1556秋 | 豊作 | 兵の募集(富樫晴貞25→27) | ― |
| 1556冬 | 大雪宇佐美定満死亡、宇佐美信有が当主へ | 兵の募集(富樫晴貞27→29) | 北条と武田の同盟破棄 |
| 1557春 | ― | 兵の募集(富樫晴貞29→31) | ― |
| 1557夏 | ― | 兵の募集(富樫泰俊3→4)金沢城へ侵攻 | 金沢城への攻撃は、野戦に勝利して一向一揆勢力を能登に撤退させたものの、攻城戦で時間切れ撤退。 |
| 1557秋 | ― | 兵の募集富樫晴貞(30→31)富樫泰俊(4→5)金沢城へ侵攻 | 2度目の攻城戦で金沢城は落城 |
| 1557冬 | 大雪 | 兵の募集(富樫晴貞31→36) | ― |
| 1558春 | ― | 移動(金沢城→小松城)大聖寺城へ侵攻 | 大聖寺城の一向一揆勢力との野戦に勝利。攻城戦も制し、国内統一を果たす。7年かけての国内統一となったが、頑張ればあと1年ぐらいははやくなりそう。 |
4. 目指せ百万石
国内統一が成り、いよいよ国外への侵攻を開始することになる。この時点での国外の状況はプレイによって変わるために、同じパターンというのはありえないだろう。今回は宇佐美家(旧上杉家)にバッドイベントが集中したため、その勢力がたいして伸びていないが、本来はこの時点で倍ぐらいに強大な勢力となっていることが予想される。なお、当初は南下戦略をとっていた宇佐美軍は、武田軍との激闘に敗れたのちに西進を開始しており、加賀侵攻まであと2ターンというところであった。薄氷の差で国内統一に間に合ったといえよう。
さて、国内統一時点での富樫家、宇佐美家、朝倉家の戦力差は以下の通りである。
主要勢力一覧 1558年夏
| 大名家 | 石高 | 総兵数 | 総武将数 | 支配国(太字は支配率80%以上) |
| 富樫家 | 37万石 | 3,800人 | 2人 | 加賀 |
| 宇佐美家 | 84万石 | 13,800人 | 8人 | 越後、越中、能登 |
| 朝倉家 | 124万石 | 27,700人 | 18人 | 越前、丹後、但馬、因幡、出雲、北近江 |

↑富樫家勢力図

↑宇佐美家勢力図

↑朝倉家勢力図
宇佐美家の勢力がそれほど伸びていないとはいえ、どちらも正面からぶつかって勝てる相手ではない。ましてや、両軍との二正面作戦は愚者の行為である。そこで、まずは宇佐美家と戦うことにして朝倉家へと同盟の使者を送ったのだが、失敗。リセットして、ふたたび使者を送っても失敗。なんとか成功させるため、百回ほどリセットを繰り返したが、まったく成功しなかった。やはり、当主の外交音痴ぶりが効いている。やむなく、二正面作戦に突入する。
以下、プレイヤーによる神のごとき采配を見よ。
1558年秋
繰り返すが、二正面作戦は愚者の戦略である。それでも、やむなく二正面作戦を行わなければならないのなら、少なくとも両軍との全面衝突は避けなければならない。こちらは本気になるような相手でないですよ、と相手を油断させつつも、いざ攻撃時には全力で相手を叩かなければならないのだ。作戦名は『赤頭巾ちゃん気をつけて』に決定する。
宇佐美軍との決戦に備え、1558年夏に全軍を宇佐美領と接する金沢城に移動させたいところだが、戦略を成就させるため、あくまで全軍を朝倉領と接する大聖寺城にとどめおき、さらに幾度かリセットをして、1558年秋のターン順番が宇佐美家→富樫家→朝倉家の順番になるように調整する。
いざ、決戦の1558年秋。まずは、宇佐美家の行動。我が軍は全軍を朝倉領方面に駐留させているため、与しやすしとみた宇佐美軍が越中と加賀の国境に配備した兵は宇佐美信有に率いられる2,300人のみ。また、能登と加賀の国境には斎藤朝信以下に率いられる4,800名。つまり、国境に配備されたのは宇佐美全軍の半数程度であり、しかも2城に分割されている。
次に富樫家のターン。今度は全軍を宇佐美軍との国境を接する金沢城に移動させる。
そして、最後は朝倉家のターン。朝倉軍は、こちらが国境から撤退したのを見て、主力部隊を西方に振り向け、国境には2,500名程度を配備するのみ。
かくして、時間差配備によって宇佐美軍を上回る兵力の展開に成功した富樫軍主力は、越中の宇佐美軍を蹴散らし府中城を占拠。見事、宇佐美軍から1城を奪うことに成功したのである。
なお、主力を西方に移動させた朝倉軍は攻めてこなかった。空城であった大聖寺城を奪われるのも覚悟していたため、マンモスラッキーといえよう。
1558年冬
府中城を奪われた宇佐美軍はふたたび主力の一部を西方に割いて、奪還を目指す。当然、野戦になれば勝てるはずがないので、我が軍は攻めこまれてすぐに撤退をする。一見、奪った城をあっさり奪い返されたようにみえるが、これも深遠な戦略の一部なのだ。
1559年春
前の2ターンのいずれも府中城が戦場になったため、府中城の城レベルは4→2→1と低下。ここで、我が軍の智略が牙を剥く。本ゲームにおける基本テクニックであり、しかも絶大な効果をもたらす、城への計略である。レベル2以上の城に計略をかけても、城のレベルが低下するだけなのだが、城レベル1の城への計略が成功すると、その城を自軍のものとすることができるうえ、その城にいた敵将は攻城戦に負けたときと同様に兵を全て失って敗走するはめになるのである。前2ターンの府中城をめぐる戦闘は、このための伏線だったのだ。
予定通り、府中城への計略を成功させ、戦わずして再占拠を行う。しかも、府中城に駐留していた宇佐美軍の遊佐続光が降伏してきた。
1559年夏
二度まで府中城を奪われた宇佐美軍は府中城に接する富山城に兵を配備するが、配備されたのが本庄繁長だったのが宇佐美家の運の尽きだ。史実において上杉家を一度裏切っている本庄繁長は忠誠心が低く設定されているのである。
早速、配下になったばかりの遊佐続光を派遣して本庄繁長の引抜きに成功。加えて加賀に撤退していた全軍を府中城に移動させる。
これで、宇佐美軍は容易に攻撃してくることはできない。逆に、府中城より能登に侵攻し、七尾城を占拠する。

↑寝返ったばかりの本庄繁長の活躍で、宇佐美軍を野戦にて撃破!
1559年秋
七尾城を奪った富樫軍は一気呵成に能登穴水城へと攻め入る。再び本庄繁長の活躍により、宇佐美軍4,800名を野戦にて打ち破り、穴水城は落城。ここに能登統一が成ったのである。だが、空城となった府中城は攻め落とされる。
1559年冬
戦力拡充のため、府中城への牽制の空攻め以外の合戦行動はなし。なお、この時点で朝倉家が同盟の使者を送ってくる。こっちがあれほどラブコールを送ったのを無視したくせに…。腹が立つが、今後の展開を考えて同盟を受諾。
1560年春
大雪のため合戦行動なし。戦力の拡充に勤しむ。
1560年夏
能登を統一し、前2ターンで戦力拡充に励んだおかげで、もはや宇佐美軍は圧倒的戦力差がある相手ではなくなった。全軍を府中城へと振り向けて、3度めの占拠に成功。
1560年秋
富樫軍はさらに東進し、富山城を占拠。
1560年冬
さらに東進し、魚津城を占拠。ここに越中統一は成った。同時に加賀、能登、越中を制した富樫家の総石高はちょうど百万石となる。
5. そして天下統一へ
5-1. 富樫家V.S北条家
1561年春の全国各地の勢力は以下の通りである。なお、富樫家はすでに安定した勢力を持っていると判断し、これ以降はリセットは禁じ手とした。――といっても、すでに一生分ぐらいのリセットはしたような気がするが。
主要勢力一覧 1561年春
| 大名家 | 石高 | 総兵数 | 総武将数 | 支配国(太字は支配率80%以上) |
| 富樫家 | 100万石 | 20,300人 | 7人 | 加賀、能登、越中 |
| 北条家 | 205万石 | 52,300人 | 33人 | 相模、武蔵、駿河、遠江、三河、甲斐 |
| 朝倉家 | 134万石 | 33,600人 | 18人 | 越前、丹後、但馬、因幡、出雲、播磨、美濃 |
| 六角家 | 140万石 | 36,000人 | 11人 | 南近江、伊勢、山城、北近江、丹波、山城、大和 |
| 陶家 | 170万石 | 25,700人 | 18人 | 周防、安芸、備後、石見、長門、讃岐、伊予、豊前、筑前 |
| 龍造寺家 | 233万石 | 53,800人 | 26人 | 肥前、肥後、筑後、豊後、薩摩、大隈、日向、筑前、豊前、伊予 |

↑富樫家勢力図

↑北条家勢力図
甲斐、信濃、越後は宇佐美家の残党および武田家に占拠されているが、双方が派手に消耗戦を繰り広げた結果、どちらも弱体化してさして問題ではない。九州を制したのは龍造寺家、中国は陶家、近畿は朝倉家および六角家が勢力を伸ばしている。東海は北条家の独壇場だ。
ここで、北上して東北を制し国力を充実させる戦略と、南下して北条家との全面決戦に挑む戦略の二通りが考えられるが、ここは後者を我が軍の基本戦略とした。というのも、当面のライバルとなる北条家は、一見、兵数や石高は2倍以上であり強敵にみえるが、武将数が33名と明らかに多すぎる。おそらく1武将あたりに配分されている兵数は過小であり、武将への多くの俸禄が必要となって、軍資金がショートするのは必然なのだ。敵は弱点があるうちに叩くのが鉄則である。
南下を進める富樫家は北上する北条家と北信濃、上野で激突。が、一武将あたりに配備された兵数が倍ほども違う富樫軍に北条軍が敵うはずもなく、徐々に戦線を後退させていく。そして、南下を開始してから3年後の1564年秋、北条家の本城である小田原城が落城するのである。
小田原城を占拠された北条家は翌シーズンに小田原城に攻撃をかけ奪還に成功。運悪く小田原城から韮山城に出陣していた遊佐続光が敵中に孤立してしまう。救援部隊を向かわせるが、1564年春は北条家の先番であったため、先に韮山城への攻撃を受けてしまう。総兵数は5,000人対5,000人とまったくの互角であったが、韮山城落城時に降伏してきた武将が足手まといとなり、野戦に敗走。籠城戦でもあっさりと落城した。遊佐続光は富樫一族以外で最初に富樫家の家臣となった武将あったのだが、あわれ切腹して果てたのであった。

↑韮山城の包囲を完成させた北条軍

↑第二部隊は敵戦力を圧倒しているにも関わらず、第一部隊が敗走…。
小田原城を巡っては北条家に一矢報いられたものの、他の戦場においては敗走を続ける北条家にそれ以上の見せ場はなく、1566年夏に滅亡した。
5-2. 富樫家V.S佐竹家
北条家と争っているうちに、西方では陶家との争いに勝利を収めた龍造寺が、近畿では朝倉との戦いに勝利した六角軍が勢力を拡大させている。東方は我が富樫軍と、その同盟国佐竹家のみが残っている。
主要勢力一覧 1566年秋
| 大名家 | 石高 | 総兵数 | 総武将数 | 支配国(太字は支配率80%以上) |
| 富樫家 | 456万石 | 58,800人 | 28人 | 加賀、能登、越中、越後、北信濃、南信濃、甲斐、上野、武蔵、相模、駿河、遠江、三河 |
| 佐竹家 | 332万石 | 79,700人 | 34人 | 常陸、上総、下総、下野、南陸奥、北陸奥、出羽 |
| 六角家 | 378万石 | 72,400人 | 24人 | 南近江、伊勢、山城、北近江、丹波、山城、大和、紀伊、丹後、但馬、因幡、摂津、播磨、越前 |
| 龍造寺家 | 532万石 | 113,300人 | 39人 | 肥前、肥後、筑後、豊後、薩摩、大隈、日向、筑前、豊前、伊予、讃岐、長門、周防、石見、安芸、出雲、備後、備中、美作 |

↑富樫家勢力図

↑佐竹家勢力図
1567冬、佐竹家は富樫家との同盟を破棄し、東日本頂上決戦が始まる。戦力は均衡しているが、ここで佐竹家は致命的なミスを犯す。同盟破棄を行ったのは大雪の降った冬で、次のシーズンの春も大雪であったのだ。東北に配置されていた佐竹軍主力部隊は序盤戦を無為に過ごすことしかできず、その隙を富樫軍が見逃すはずがない。「進め! 進め! 勝利の女神はお前らに下着をちらつかせているんだぞ!」(ビッテンフェルト)とばかりに全兵を関東一円に展開した富樫軍は、佐竹家の領土を次々と分断する。そして、開戦より2年後、佐竹家は東関東の大半を富樫軍に奪われてしまった。

↑佐竹家勢力図。下野、下総、常陸を奪われ、もはや佐竹家の領土は東北のみに…。
こうなっては、佐竹軍に勝機はない。主力部隊はダメージが小さく、兵数こそ残っているが、それを支えるだけの軍資金が無いのである。せっかくの兵も資金不足で討って出ることができず、防戦一方になってしまう。一方、豊かな生産力を誇る関東を新領土に加えた富樫軍は勢いを増して東北へと戦場を移し、開戦よりわずか4年後に佐竹家は滅亡していたのであった。
5-3. 富樫家V.S龍造寺家
そして、いよいよ龍造寺家との決戦である。東方で富樫家が佐竹領を併呑しているあいだに、西方では、龍造寺家が六角家を滅ぼしつつあった。もはや、天下はこの2家のいずれかであることは誰の目にも明らかである。
主要勢力一覧 1571年秋
| 大名家 | 石高 | 総兵数 | 総武将数 | 支配国(太字は支配率80%以上) |
| 富樫家 | 902万石 | 107,700人 | 30人 | 加賀、能登、越中、越後、北信濃、南信濃、甲斐、上野、武蔵、相模、駿河、遠江、常陸、上総、下総、下野、南陸奥、北陸奥、出羽、三河、尾張 |
| 龍造寺家 | 879万石 | 131,000人 | 48人 | 肥前、肥後、筑後、豊後、薩摩、大隈、日向、筑前、豊前、伊予、讃岐、土佐、阿波、長門、周防、石見、安芸、出雲、備前、備後、備中、美作、播磨、因幡、但馬、丹後、丹波、摂津、紀伊、河内、山城 |

↑富樫家勢力図

↑龍造寺家勢力図
だが、ここまで順調に勢力を伸ばしていた富樫家に衝撃の事態が訪れる。
1572春、富樫家を短期間で見事に再興し、かつてないほどの栄華を極めたバカ殿晴貞が、寿命を迎えて死去したのである。史実より遅れること二年。果たして、天下取りを前に志半ばで倒れるのと、一向一揆に討たれて死ぬのと、いずれが無念であっただろうか。
富樫の家名は受け継がれることなく、家中で最も強い政治力を持つ木下秀吉が当主となった。嗚呼、下克上。晴貞には気の毒だが、戦国有数の無能な当主が有数の有能な当主に取って代わり、もはや弱点が無くなった木下家にとっては、龍造寺軍でさえも強敵とはいえない。近畿地方において、双方の覇権をめぐって1572秋〜1576春にわたって激戦が繰り広げられたが、詳細は述べない。ただ、野戦となった戦闘の戦績のみを記しておこう。
1572秋〜1576春 野戦記録(太字は勝者)
| 年号 | 位置 | 木下軍 | 攻撃方向 | 龍造寺軍 |
| 1572秋 | 観音寺城(南近江) | 5000人 | → | 10,300人 |
| 1573春 | 観音寺城(南近江) | 19,700人 | ← | 15,000人 |
| 1573春 | 亀山城(伊勢) | 24,900人 | ← | 30,000人 |
| 1573夏 | 坂本城(南近江) | 15,000人 | ← | 15,000人 |
| 1573夏 | 亀山城(伊勢) | 25,000人 | ← | 26,200人 |
| 1573秋 | 坂本城(南近江) | 10,600人 | ← | 24,600人 |
| 1573冬 | 今庄城(越前) | 27,400人 | ← | 30,000人 |
| 1573冬 | 大溝城(北近江) | 22,400人 | ← | 24,000人 |
| 1574春 | 今庄城(越前) | 20,000人 | → | 23,500人 |
| 1574春 | 亀山城(伊勢) | 19,200人 | → | 16,400人 |
| 1574夏 | 亀山城(伊勢) | 19,900人 | ← | 21,700人 |
| 1574秋 | 田辺城(丹後) | 11,400人 | → | 7,900人 |
| 1574冬 | 亀山城(伊勢) | 9,900人 | ← | 8,800人 |
| 1575冬 | 郡山城(大和) | 15,000人 | → | 22,600人 |
| 1576春 | 信貴山城(大和) | 19,900人 | → | 18,200人 |
木下軍の勝率は8割に近く、しょせん龍造寺軍など乱数の魔術師の異名を持つ私の敵ではなかった。負けの込んだ龍造寺家は次第に広範囲にわたる戦線を支えきれなくなる。あとは坂道を転げ落ちるかのごとく、各地で分断→各個撃破され、4年後の1580年夏に薩摩指宿城で当主龍造寺政家は自刃して果てた。
ここに木下秀吉による全国統一がなったのである。

6. 戦い終わって、日が暮れて…
そんなわけで、長々と書いてきた本稿も終了となる。
ひとつ無念なのは、天下統一を成した大名家として富樫家の家名を残すことができなかったことだ。もっとも、もし晴貞が生きていれば、龍造寺軍との戦いはもっと苦戦したものと思われる(なにしろ、秀吉のCP17に対して晴貞は5しかないのだ。そうなれば、部隊の移動だけで手一杯で、鉄砲部隊の編成などは夢だっただろう)。その場合は、天下統一があと5年は遅れていただろうし、そこまで晴貞の寿命がもったかどうかわからない。
だが、今回の富樫家プレイでだいたいのコツはつかめたので、晴貞ENDも不可能ではないことを確信した。もっとも、序盤のリセットづくしにはさすがに疲れたので、忘れもののかけらを取りにくるのは後のことにしたい。

↑何度この画面を見たことか…